明かりの少ない山村が点在していた昔の伊那谷には、狐火の伝承がいくつも残っています。
伊那谷に名狐と呼ばれる個体はいなかったのに関わらずこの種の話が多いのは、結局のところ狐という生き物がこの地ではあまりにも身近すぎていて、その神秘性は認めていたもののそれほど大きな存在には成り得なかったということでしょう。
まずは私自身の体験談を一つ。
私が高校生~新社会人になる頃にかけて、毎年決まってある山中でお盆の時期にキャンプをしていました。
そこは三峰川本流ととある支流との出会いで広場になっており、森林鉄道時代には幾人かの労働者が寝泊まりしていた飯場跡でもあります。
山篭りしている約1週間のうち一晩か二晩、夜半になると、三峰川の対岸に薄ぼんやりとした光球が必ず2つ、ぷかぷかと浮いています。それも毎年現れるのです。
決まって2つ現れるので当然最初は動物の目が光を反射しているものと思いました。
ところが、明らかに大きさがおかしい。約50~80m先に見えていますが、暗闇であることを考慮してどう見ても、少なくとも一つ一つがバスケットボール以上の大きさはあるのです。
懐中電灯で近くを照らしてみたりしましたが、どうも見間違えているというわけでもない。
その場にいる者は自分も含め、火の玉だ鬼火だ燐が燃えているんだなどと喧々諤々でしたが、不意の突風があっても同じ場所から微動だにせず、どうも炎の類でもないという結論になりました。
そして、大体30分~1時間ほど経つと次第に光が儚くなり、すうっと消えてしまいます。
これが狐火なのか、お盆の時期だったのでこの地で命を落とした先人たちの人魂(私の祖父含む)が此岸に戻ってきたものなのかはわかりませんが、あまりにも神秘的で、何年経っても鮮明に覚えています。
当時はカメラに興味がなかったので写真撮影を試みれなかったのが非常に残念です。
杉島にゲートができて以来なかなか訪れられる場所ではなくなったので、ここでキャンプすることもなくなり、今も現れるかはわかりません。
それでは、古い伝承を紹介していってみましょう。
(略)いまは昔話になってしまったが、松本平から伊那の谷にかけて、もとは夜よく山裾にいわゆる狐火がともって行列をつくったという。たとえば、明治三十一年の二月一日、箕輪町上古田の村人が見た狐火は、日記にこう書かれている。
「文太君を送り、家へ帰る道で狐火を見る。数十町の間、原や藪の燃えること夥し。積雪あって燃える故、驚きて見る。文太君の家近き所に童子五、六人見ていて、これ何の火ぞやと問う。答へず。翌日、入船町(現伊那市中心部)にてきけば狐火なり、暮六ツ時より四ツ頃まで燃えしと云ふ。」
こういう現実を示されると、多くの人はやはり伝えを信じざるを得まい。だから、道で狐の姿を見ただけで、もう気分的には恐れ入ったのであった。
ものと人間の文化史 14 狩猟伝承(出版 – 法政大学出版局 1975年) 170-171頁より引用
まったく同じ話が別の書籍にも紹介されていますが、そちらはどうも地理的な情報を間違えているようです。
(伊那市入船町が箕輪町下古田の小字、ということになっている)
日記の内容はほぼ変わらずに紹介されていますが、少しだけ解説が付け加えられているので以下に引用しておきます。
木曽山脈東麓の下古田という村に、天保七年(一八三六)の頃、稲荷神の熱狂的信者たちによって、狐騒動と呼ばれる憑依事件が起きている。その顛末を記した写本に”下古田狐騒動”というのがある。これを筆写していたとき、たまたま騒動記の末尾に、狐火についての聞書が二つまでも記されているのを見つけた。荒唐無稽な憑依事件は省略して、この偶然記録の方を紹介してみたい。
二つの記録のうち一つは、実証的で、写本の持ち主の実見記らしい。明治三十一年冬の見聞である。
二月朔日、文太君を送り、家へ帰る道で狐火を見る。数十丁の間、原や藪の燃えることおびただし。積雪あって燃える故、驚きて見る。文太君の家近き所に童子五、六人見ていて、これ何の火ぞやと問う。答えず。翌日、入船町にてきけば、狐火なり。暮れ六つどきより四つ頃まで、燃えしと云う。
入船町は下古田にある小字地名で、川らしい川もない山裾の丘陵地の村にしては、珍しい地名である。実見者が翌日ここを訪ねて、昨晩の不審火について確かめると、狐火であることを聞かされる。狐火は暮れ六つというから午後の六時から始まって、四つ頃--- 午後の十時頃まで、数十丁の間にわたって燃えていたと、言うのである。数十丁という距離を額面どおりにうけとると、約八キロということになるから、少し大袈裟のようである。
続々 狩りの語部(出版 – 法政大学出版局 1978年) 66-67頁より引用
8キロもの規模の狐火を同時に大人数で目撃しているとは驚きです。
真冬の雪原に現れた狐火は、さぞかし神秘的で幻想的な光景であったことでしょう。
残念ながら紹介は省かれてしまっていますが”下古田狐騒動”の本編にも非常に興味をそそられます。
二つめの記録は次の通りです。
もう一つは、他人の見聞記を写したものらしいもので、うぶな資料とは言えない。
ある人、高遠より夜四つ頃帰り、小黒原にて狐の火を焚くを見るに、これにて提燈をつける。まことに奇妙なり。一つつき始めると、数十張ばかり、たらたらつく。また一つ消えると思えば、残らず消える。
夜の四つ頃、つまり午後十時ごろ、小黒原で実見したと言う狐火の聞書である。小黒原は、現在の伊那市外にある地名である。ここで狐が火を焚き、この火で提燈をとぼすが、一つ点火すると、たちまち数十張の提燈に火がともる。消えるときは一張消えると、あと残らず消えるという、狐の演じる手品もどきの鮮やかな火の点滅ぶりである。狐火の実体を究めようとした人は多かったが、大方はこの幻想的な美しい紀聞のところで終ってしまっている。
続々 狩りの語部(出版 – 法政大学出版局 1978年) 67頁より引用
伊那市小黒原は小沢川と小黒川の中間、中央自動車道沿い辺りの一帯です。グリーンファーム周辺(ますみヶ丘の下の方)と言えばわかりやすいでしょうか。
この話はまさに狐火の話にありがちな内容で、ちょっとフィクション色が強い気がします。
最後に紹介する話は伊那市長谷村の桃ノ木集落(現在は廃村)で起きた話です。
冒頭に紹介した私の目撃談は、まさにこの集落から数キロ上流で起きたものであり、父の出身地塩平集落も話の舞台の一つになっています。
ところで狐火も、末期を迎えると現実的な様相を帯びてくる。ある夏の夜、桃ノ木の奥の塩平から、桃ノ木に向って坂を下りてくる明かりがあった。不思議なことにその明かりは、ついたり消えたり、またついたり消えたりしながら、桃ノ木の方へ近づいてくる。この怪しい明かりに眼をとめた村人が、
「おい、あれは狐火じゃないか」
と、言い出した。これがきっかけで、狭い集落のことだから、たちまち人が集まって宵の評定になった。なるほど言われてみれば、明かりの点滅ぐあいが、たしかに異常である。ためしに、鉄砲で撃ってみようということになり、さっそく鉄砲うちが、鉄砲をもち出してきた。物知りは物知りで、
「狐火は、灯をためて(狙って)撃っても無駄だぞ、狐は灯の少し横で灯を焚いているものだからな。」
と、薀蓄を預けたアドバイスをしてくれる。鉄砲うちが灯の少し横を狙って一発撃つと、それっきり明かりが見えなくなった。
それから二十分ばかり経ってのことである。桃ノ木の集落へ、一人の男が血相変えてやって来た。それは顔見知りの伊那市に住む蚕の種屋(蚕種屋)であった。
「やい、いまのいま、俺に鉄砲をぶっ放した奴は誰だ。」
種屋は恐ろしい剣幕で、その場に集まっている村人をにらみまわした。種屋は塩平へ、注文のあった秋蚕の種を届けに行った帰りであった。その夜は、ろうそくが短いので、宿屋のある市野瀬までもたせるために、提燈の灯をつけたり消したりして、ろうそくの節約をはかりながら、坂を下って来たところで、そこをはからずも撃たれたというわけである。幸い命中しなかったが、これは昭和初期にあった実話である。
その後、桃ノ木では狐火を見ていない。それどころか過疎による不便さのため、愛すべき桃ノ木の人たちはささやかな村の歴史の頁を閉じて、四散していった。最後の人が村を去ったのは昭和四十五年の十二月のことである。
続々 狩りの語部(出版 – 法政大学出版局 1978年) 68-70頁より引用
誤射された下りだけ見れば落語のネタにでも出来そうなエピソードでありますが、実話なだけに笑えない内容ですね。
たった2冊の本でも、これ以外にも伊那谷の狐火のエピソードが載っています。
狐火の正体はわかりませんし、実際には何らかの理由に基づいた現象だったり当人の勘違いなどだったのかも知れませんが、明かりに包まれた現代において忘れ去られてしまった当時の世界観が垣間見えていて、面白いものです。