昔話で「山犬」と出てきたら、まず間違いなくニホンオオカミのことを指していると思って良いでしょう。
現代ではほとんど忘れ去られている事実ですが、近代までの人間と狼との戦いは壮絶なものがありました。
結果的にニホンオオカミは絶滅してしまった訳ですが、当時いかに狼が身近な存在だったかわかる一文を紹介しましょう。
アルピニストの間で、南アルプスの仙丈ヶ岳や鋸岳の登山口として知られる戸台は、小黒川と戸台川の合流点にいきずく、山峡のむらである。この戸台からさらに、小黒川の川べりの道を遡って三キロ程ゆくと、大久保という、戸数わずかに二戸の人里が昭和二十五年頃まであった。この二軒は本家と別家の間柄で、共に高坂姓を名乗っていた。 慶応年間(一八六五~一八六七)のある夜ふけ、本家の高坂家に顔見知りの櫛ひきさんが、入口のくぐり戸を手荒にあけてとびこんできた。この人は、大久保から小黒川に沿って、さらに三キロばかり奥へ入った吉ヶ平で、櫛材を挽いている職人だった。そのころの小黒川の谷には、ミネバリと呼ぶ櫛材用の固い木質の樹が、いくらも繁茂していたので、櫛材関係のいわゆる櫛職人の転住者が時折あったものである。これらの櫛材は、あら木どりをして木曽谷へ運ばれて完成品となり、世に言うおろくぐしとなって売り出されたものである。 この日櫛ひきさんは、四十キロほど離れた生まれ所在の宮田村から、吉ヶ平の仕事小屋へ戻る途中、鹿嶺峠を越え夜の山路を、大久保もま近なツガ尾根地籍までくると、そこに一匹の山犬--- オオカミが例の犬つくばいをして待っていた。それなりこの狼は櫛ひきさんの後を、ずうっとついて来たのだった。このように、人間のあとをつけてくる狼のことを伊那谷では”送り犬”と呼んできた。犬と呼ぶのは、狼のことを別名”山犬”とも呼んでいるからである。
狩りの語部(出版 – 法政大学出版局 1977年) 120~121頁より引用
ニホンオオカミの絶滅によりニホンジカの天敵が事実上いなくなってしまい(唯一、猟師が現在その役割を担っているが減少傾向)、鹿の頭数増加により農林水産的な被害や貴重な高山植物の食害につながっていることを、一言添えておきます。
生き残っていたらいたでおっかない存在ですけどね。