日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の伝説を伝える神社です。
ここに来たら是非本殿の彫刻を覗いてみてください。
関口文治郎作のこの彫刻により「伊那日光」とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
古代大和朝廷の英雄といわれている日本武尊にまつわる話は、長谷の地にもいくつか語り伝えられている。 十二代景行天皇の御世、皇子日本武尊は、命により東征して蝦夷を討っての帰り路、甲斐の国酒折の宮(甲府市内)に滞在した。たまたまこの郷に悪神がいるのを聞いたので、尊は悪神をさけて険路を越え、山を下り河原に出られた。その時大蛇が現われて行くてをさえぎったので、尊は腰の剣を抜いて大蛇を切った。おびただしい流血が河原の石を赤く染めて流れたという。現在の南アルプス登山口戸台から戸台川を約八キロメートルさかのぼった東駒山麓の赤河原がこの地といわれ、河原の石はすべて赤い。 日本武尊は、この大蛇の頭を携えて十数キロメートル川しもの溝口の里に来た。そして大きな桑の木の下に行宮を造り、そのそばに携えてきた大蛇の頭を埋め、里の人々の苦しみを除いたといわれる。今この地を桑田といっている。 この桑田地籍に熱田神社があるが、後世の人々が尊のなさけを慕い、尾張の国熱田神宮の形影(三方四ツ辻)を移してこれを祭った。その後正平二年、南朝の臣藤原成文がこの地にきて、尊の霊蹟を深く信じて社殿を改造し、神明宮及び八劒神社を合祀して大いに神事を行ったといわれる。成文の歌。 信濃なる伊那てふ里の片辺にも めぐみあった神の御社 天正十一年十月高遠城主保科正直は、神社取調べの際、尊の旧蹟を慕い、大刀一振、畠方一段五畝歩の貢物を寄進された。 宝暦九年より五か年にわたって社殿を大改築したが、その時の彫刻は当代の名工を集めて彫らしたといわれている。匿名のため工匠の名をつまびらかにすることはできないが、その緻密精巧な技術は、日光の東照宮を思わせるものがあり、その名工ぶりがうかがわれる。人呼んで「伊那日光」というが、その名にふさわしい本殿である。 この建築は、境内にあった欅の木一本で本殿及び彫刻すべてができたといわれている。この欅の大樹を伐採したとき、根もとの方が大きな空洞になっていて、その中から大蛇の白骨が出てきた。人々は益々熱田大神宮の霊を信じて上代の昔をしのび、本殿の北側に小さな社を建てた。これが高龗神を祭った龗神社である。村の人々はこの社を蛇骨さまと呼んでいる。
伊那谷 長谷村の民俗
(出版 – 長野県上伊那郡長谷村文化財専門委員会 昭和48年) 285-286頁より引用
神社のすぐ前に駐車場が整備されました。本殿が見えています。
立派な石碑。
境内の北側にある舞宮。
境内中央にある御神木の大ケヤキ。
本殿前から境内全体を望みます。
熱田神社 - Spherical Image - RICOH THETA